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聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ司祭証聖者  St. Vincentius a Paulo C.   記念日 9月 27日


 ヴィンセンシオ・ア・パウロは聖会において大聖者の一人に数えられているばかりか、世間に於いてもその慈善に尽くした功労の故に人類社会の恩人と仰がれている信仰の英傑である。それで聖会は彼をあらゆる博愛事業の総保護者とし、また彼を師父と尊んでその精神を汲みそのあとに倣う敬虔な男女も夥しい数に上っている。
 彼は1576年4月26日、フランスのガスコーニュ州のランキーヌ村に生まれた。両親は子沢山で甚だ貧しかったから、彼も年少の頃から牧童として家事の手伝いをしなければならなかった。
 しかし12歳になると、かねて彼の人並みすぐれた利発さを惜しんでいた父は、これを付近のフランシスコ会修道院に委ね、その訓育を受けさせた。ヴィンセンシオは学問苦行その他に精を出すこと4年、それから修院長の世話である弁護士の家に雇われ、なおも勉学を怠らず、5年後聖職者の試験に応じて見事合格、タルブ司教から剃髪式を受けてその列に加わったのである。
 が、まだ司祭になる為にはより深く学問を究めねばならぬ。そしてそれには少なからず学資を要する。父は有難い親心から大切な牡牛を二頭まで売ってその金をととのえてくれた。ヴィンセンシオは父恩のかたじけなさに感泣しながらそれをもってスペインのサラゴッサ、及びフランスのツールズにある大学で神学を研究し、ついに栄誉ある学位まで勝ち得るに至った。
 かくて彼は首尾よく司祭に挙げられたが、なお暫くは学問の研究を続けていた、するとその内にある婦人の遺産の幾ばくかを貰うこととなり、マルセイユに赴いてこれを受け取った後、帰りの船に乗り込んだ所、途中思いもかけずトルコの海賊船の襲来を蒙り、持ち物は一切奪われた揚げ句、身は鉄鎖に縛められてアフリカに連れて行かれ、チェニスで奴隷に売り飛ばされてしまったのである。
 ヴィンセンシオは先ずある漁業家に買い取られたのを手始めに、医師の家に働いたこともあったが、やがてある豪農の手に渡り、炎熱灼くが如き熱帯の白日の下、汗にまみれて耕作に従事する身となった。
 その主人は嘗て成聖の聖寵を恵まれたキリスト信者でありながら、いつか信仰を失い救霊の事をも顧みなくなった不幸な棄教者であった。ところがその家の妻はヴィンセンシオが奴隷に似げなく骨身を惜しまず、さも楽しげに労働するばかりか時に讃美歌を歌い祈祷を献げるのを見て大いに感心し、一日彼に宗教の話を聞いて益々その感嘆を深め、のち夫に向いて「キリスト教はあんなに立派な宗教ですのに、それをどうして貴方は棄てたのですか」と尋ねた。天主の聖寵はこの妻の言葉と共に彼の心を動かした。彼はわが非を悔い改め、妻やヴィンセンシオを同伴してチェニスを後にフランスへ行き、そこで自分は帰正し、妻は洗礼を受けた。この妻はそれから幾程もなく世を去ったという。
 残された二人は思い立ってローマへ巡礼したが、主人はそこである修道会に入った。で、ヴィンセンシオは一人諸々方々の殉教地を訪ねては祈り、傍ら神学の研究をし、後フランスに帰ってパリに程近いサン・ジェルマンの小さな家に、ある弁護者と同居し、そこから毎日近所の慈恵病院に通っては患者の看護や教理の教授に当たったのであった。
 しかるにある日彼等の家に賊が忍び込み弁護士の金子を盗み去ったところ、その窃取の嫌疑がヴィンセンシオにかかり、彼は非常な迷惑を蒙った。勿論彼は身の潔白を主張した。しかしその弁解は常に「全知なる天主は私がそんな盗みなどする者でないことを、よく御承知の筈です」という一語に限られていた。その天主に対する厚い信頼は立派に報いられた。というのは、真の犯人が良心の呵責に耐えかね、自首して出たにより、自ずと彼の無罪が証明されたからである。
 ヴィンセンシオは人知れず幾多の善行を行ったが、その陰徳の一つにこんな話がある。彼の一友人が信仰に対する疑惑に夜も昼も苛まれ通し、苦しさに耐えかね之をヴィンセンシオに打ち明けた。それは聞くだけでも恐ろしい試練であった。已み難い同情に駆られた彼は友に代わってその試練を受けようと決心し、天主にその旨を祈願した。するとその瞬間から友人の心には疑惑の嵐がぱったりと止み、春の海にも似た幸福な平安が帰って来た。それと同時にヴィンセンシオの胸には疑惑の雲が隙間もなく閉じこめ、爾来4年間というものついぞ平安の日陰を仰ぐ折りとてなかったのである。
 彼はその疑惑に打ち負けぬために使徒信経を記した紙を胸に下げ、それを見ながら日毎信仰の恵みを祈り求めた。そしてようようにその心の黒雲が名残なく晴れて麗しい信仰の光に接し得たのは、彼が一生を貧者の為に献げるという誓願を立ててからであった。
 1612年、ヴィンセンシオは37歳でクリシイという片田舎の教会の受け持ち司祭となり、任を果たすこと5年、転じてシャチヨンの主任司祭となった。その前後彼は当時フランスの海軍大臣として令名高かったゴンヂ家付き司祭に選ばれ、また小作人、艀舟人夫、漕丁たちに接する機会を得、その労苦や、宗教的知識に対する渇望の激しさを知って少なからず心を打たれた。
 それでヴィンセンシオはある時そういう労働者達の救霊の一助にもと黙想会を開いた所、案に違わず大歓迎を受け、予期以上の効果を納めることが出来た。で、これに気をよくした彼はその後も諸々に下層社会の人々の為そういう集まりを催そうと考えたが、悲しいかな手が足りなくて思うに任せない。ついに思案に余った彼は方々の修道会司祭に援助を求めた。けれども修道会にはまた修道会の都合もあるのか悉く拒絶されたので彼はどうしてもこの目的の為に特別な団体を組織する必要があると感じ、やがて同志を募って一つの会を結成した。その名はラザロ会。これは本部に宛てられた家の名にちなんだものである。それから彼は願い出て教会主任司祭の職を解いて貰い、弟子達と共にフランス国中を巡回してはここかしこに黙想会を開くこととした。又彼は博愛事業をも思い立ち、その為には同志を男女二組に分かちそれぞれの会を作り、女子の会には主として病者の看護を、男子のそれには貧困者の救済を委ねた。
 ヴィンセンシオが生を終えるまでに開いた黙想会は実に七百回の多きに上った。そしてラザロ修道会は後全世界に広まりさまざまの慈善事業に従事し、社会に貢献する事僅少でなかった。同会の記念すべき創立の日は1625年4月17日、本部所在地はパリであった。
 ヴィンセンシオは青少年時代数々の苦労を嘗めただけに、不幸な人々に対する同情も人一倍深く、暇さえあれば病人や囚人を見舞ってこれを慰め励まし、また寄る辺もない孤児を見出しては之を博愛の姉妹達の養育に委ねた。
 1619年ゴンヂの斡旋で国王ルイ13世の任命を受け海軍付き司祭となってからは、いよいよ慈善の業を行う機会に恵まれた。杖とも柱とも頼む唯一の働き手を懲役に取られその日の糧にも困る赤貧の一家を救うべく、囚人の身代わりになって舟漕ぎの刑務を果たしたというかの有名なヴィンセンシオのエピソードは、真偽を確かめる由もないが、もし事実とすればやはりこの頃の出来事であろう。
 彼がその生涯に於いてどれほど多数の困窮者を救ったかということは、その手を経た慈善金が五百万フランの多額に上っている事実からも想像される。ヴィンセンシオは交際が広く、上流人士の間に多大の信用を有し、慈善に金を投じようとする貴婦人達は、多く彼によったのであった。
 ヴィンセンシオの事業中最も重きをなしているのは、「愛の処女」とも呼ばれる博愛の姉妹会であろう。マリクラのルイズを最初の会長とするこの会は1646年聖会及び政府の認可を得、次第に世界の各地に進出、病者の看護を本分とし、隆々発展の一路を辿り、今日では三万八千の姉妹を擁している。聖人は同会員をわが娘と愛称し、その修徳のみちしるべに慈父の心を以てあの有名な「講義」を書いた。なおその他は七千通にならんとする彼の書簡も、霊的価値に富むものとして珍重されている。
 かくて数々の偉業に天主の御光栄を輝かした愛の役者ヴィンセンシオは1660年9月27日、眠るが如く仮の世を去った。享年86。列聖は1737年6月16日であった。

教訓

 「汝等わがこの最も小さき兄弟の一人に為したる所は、事毎に即ち我に為ししなり」という主の聖言と立てられるに至った。我等も彼に倣い、慈善を重んじて自ら之を行うは勿論、機会があれば何等かの博愛団体に加入し、世界人道の為に力を尽くすのもまた奨められてよいことである。